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LUNA COGNITA-Noboru Tsubaki's Paintings-1978,1986,2022-2023

202302/26
202304/02

椿昇

椿昇はこれまで、現代社会の抱える問題への警告を強いメッセージ性のある巨大な立体作品に内包し発表してきました。「関西ニューウェーブ」を牽引した作家の一人として、1989〜90年にアメリカ7都市と名古屋を巡回した「アゲインスト・ネイチャー 80年代の日本美術」展に参加し、呪術的な黄色い有機体《Fresh Gasoline》を出品、2001年の横浜トリエンナーレではインター・コンチネンタル・ホテルの壁面にバッタを象った全長50mのバルーン作品《インセクト・ワールド−飛蝗(バッタ)》を出展し大きな話題となりました。

本展では、椿の創造の特異点を未発表だった絵画作品に見出します。京都市立芸術大学を修了後、高等学校の教師時代に制作した作家キャリアの原点となる作品《Zeit》(1978年制作)、代表作《Fresh Gasoline》への展開を感じさせる《Untitled》(1986年制作)の2点の絵画作品を初公開。これらの作品は、これまでの活動に新たな視点をもたらすだけでなく、月面の3Dモデリングをベースに制作された新作絵画シリーズ《Luna cognita》に至る椿のこれからの展開の基軸となっています。絶えず新たなフィールドを開拓し続ける椿昇の現地点を是非ご覧下さい。

「椿は、我々に…」あるいは、絵画の始原について 

国立国際美術館研究員 中井康之

椿昇は、我々に「  」を常に問う。そして、緊迫した状況を、突きつけるのである。

この命題のキータームとなる箇所を空欄にしたのは、本テキスト冒頭部の摑みとして脚色したかのように映るかもしれない。しかしながら、正直に告白しよう。私はそこに嵌まるのに相応しいことばを、ひとつに定めることができなかったのである。

ところで、話は変わるが、M.デュシャンの最後の絵画《Tu m’》(お前は、私に…)という作品をご存知だろうか。デュシャンにとって重要なコレクターでもあった、キャサリン・ソフィ・ドライアが、自宅の書棚の上、細長く空いた場所を飾るための作品として依頼し、デュシャンが5年ぶりに絵筆を手にすることによって1918年に生み出された作品である。1918年と言えば、その前年の1917年、デュシャンは《泉》という作品を発表している。男性用小便器にサインを施して作品としたその手法は、後に「レディメイド」(既製品)という新たなジャンルを成立させて、20世紀以降の美術界に大きな変革をもたらした。また、さらに2年遡った1915年、デュシャンは透明な板ガラスを支持体とし、そこに図像を金属素材等で現した作品を手を付け始めている(1923年に未完成で終わった)。以上のように、デュシャンの作家としてのキャリアを考えるならば、1918年という年は油彩画を描く必要がないというレベルを超えて、新たな表現領域に挑んでいたデュシャン自身への背徳的行為のようにも考えられるだろう。であるが故に、口の悪い研究者たちは、この作品のタイトルの隠された箇所に「ennuise」という言葉をあてて「Tu m'ennuise」(お前は私を退屈させる)という意味が、この作品には隠されていると主張されてきた。(1)

本題に戻ろう。椿昇は今回の個展で絵画を発表するという。デュシャンが20世紀初頭に「退屈させる」と秘かに呟いたとも言われている表現手段を、椿はあらためて見直す必要があると判断したのである。ある評論家が、絵画の始原に纏わることに関して興味深い見解を披露している。人類の祖先にあたる者たちが、暗い洞窟の奥深くに、彼らの生命を維持するための獲物(動物たち)を描いたのは、それをこの世に作り出してくれた、この世界の創造者への感謝のメッセージとして表したものではないかというのである(2)。換言しよう。神との交感を遂げる為の機能を洞窟壁画は果たしているのではないか、という興味深い意見である。そのような暗い場所に図像を跡付けることを促したのは、おそらくシャーマンの役割を果たしていた者の導きがあっただろう。或いは、これらの図像の描き手自身がシャーマンの役割を兼ねていたということもあり得るだろう。絵画の始源について想像を拡げていくと、このように人類の原初的な宗教的行為にまで話が及んでしまうのである。

再び、本筋に戻らねばならない。我々は椿昇の絵画に親しい訳では無い。私自身、確かに向き合ったと言える椿の最初の作品は《フレッシュガソリン》(1989)だった。実は、私はこの実作品とは出会っていない。しかしながら、1990年代初頭、限られた資料の中からその特異な形態を備えた作品を見出し、まるで夢幻を見るかのように、その巨大な作品と時空を共有していた。その仮想の記憶を辿ろう。道路側が全面ガラスとなった展示空間に、その光り輝くような黄色に覆われた不定形の巨大な作品は在った。同作品は、高度な生物の機能を司るための臓器、人類の脳のようなものをイメージさせる複雑な表情を備えていた。そして、その巨大な作品とひとつの空間を共有していると、その臓器に取り込まれている自己という存在が、唯脳論を図式化した構図として認識されるに至ったのである。いま、あらためて同作品の図版を確認すると、黄色い臓器から外へ向けて触手を伸ばす様に、無数の細い枝状の突起物の形態が気になってくる。その臓器によって引き起こされた観念的現象が実体化して外界と結び付いていることを図式化しているのだろう。

ところで、当該作品は、外的条件から捉えれば、彫刻作品として分類されると考えられる。しかしながら、同作品を構成する素材の質感を全く無視して黄色く着彩されている点、さらに、あくまでも輪郭的な形象によって臓器を想像させるような点に於いて、立体造形のような姿形をした絵画であるという解釈を私は行ってしまうのだが、それは詭弁に過ぎるであろうか。もちろん、同作品の類型分類が何であろうと問題ではない。しかしながら、聞くところによると今回の椿の初期絵画作品は「もの派的絵画」を謳っている。断言しよう。そのような類型分類は存在し得ない。いまここで、「もの派」の定義解説を始める余地はないので断念するが、おそらく椿昇は、そこに何らかの仕掛けを施しているのだろう。我々は十分に覚悟しなければならない。

 

註1. 東野芳明「最後の絵画」『マルセル・デュシャン』1977年、美術出版社、71頁。
註2. 中原佑介「ヒトは洞窟の奥に何を見たのか」『ヒトはなぜ絵を描くのか』2001年、フィルムアート社、206〜217頁。


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「Space Colony Tsubaki」

椿 昇 | Noboru Tsubaki
1953年京都市生まれ。京都市立芸術大学美術専攻科修了。京都芸術大学教授。東京芸術大学客員教授。1989年サンフランシスコ近代美術館「AGAINST NATURE: JAPANESE ART IN THE EIGHTIES」に《Fresh gasoline》を出品。45回ベネチア・ビエンナーレ「アペルト」に参加(1993)。巨大なバッタのバルーン《インセクト・ワールド−飛蝗(バッタ)》を横浜トリエンナーレ2001で発表。個展に9.11以後の世界をテーマにした「国連少年展」水戸芸術館(2003)、「椿昇2004-2009 : GOLD/WHITE/BLACK」京都国立近代美術館(2009)、「椿昇展“PREHISTORIC_PH”」 霧島アートの森(2012)。瀬戸内国際芸術祭「醤+坂手プロジェクト」(2013)、「小豆島未来プロジェクト」(2016)、AOMORIトリエンナーレ2017、ARTISTS’ FAIR KYOTO (2018-)等のディレクターを務める。

展示会名
LUNA COGNITA-Noboru Tsubaki's Paintings-1978,1986,2022-2023
会期
2023/02/26-2023/04/02
オープニングレセプション
2023/2/26 Sun. 17:00-
トークイベント
2023/3/4 Sat. 18:30-
椿昇×たかくらかずき
作家名
椿昇
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